お体にお気をつけて。(長文マジ注意)

「へい!コハダおまち!」


角刈りのよく似合う、無骨な表情をした大将はカウンターからコハダの握りを二貫、僕の目の前のゲタに差し出した。

僕は寿司が大好物だ。冬の時期になると、旬で美味い魚が多い。

若い時分、回転寿司でしか寿司を食べた事が無かった僕だが、3年前の冬、職場の上司に銀座の一流の寿司屋、「久兵衛」に連れて行って貰い、カウンターで粋に寿司と酒を愉

しむ大人の嗜みを学んだ。


僕も30を過ぎた事もあり、行きつけの寿司屋を見つけてカウンターで美味い寿司と酒を嗜む粋な大人になりたいという憧れから、以来この店に通い詰めている。

とは言っても、僕の収入では銀座の寿司屋で飲み食いする余裕もあるはず無く、住んでいる梅ヶ丘駅から徒歩5分程にある小さい大衆店なのだが…


しかし大衆店と言えど、無口で無骨だけど寿司への拘りは人一倍強い大将の寿司ダネへの目利きと、タネへの一手間、そして握りの腕は一級品で、連日地元の常連で繁盛してる店だ。

僕は今日、1ヶ月ぶりにこの店を訪れた。週に1、2回は通っていた店に暫く来れなかった理由は有り触れた物だ。

僕はこの1ヶ月、打ちのめされていた。大好きな寿司を食べたいという欲求が無くなる程に。有り触れた出来事なのかもしれないが、僕にとってそれは身を裂かれる程に辛い出来事だった。

しかし、1ヶ月という時間が僕の状況を緩和してくれた。どんなに辛い出来事や失恋を経験したとしても、食への欲求が途絶える事など一時の事なのだろうか…。わからない、

今の僕には何も…。


兎にも角にも、僕は久々に寿司を食べたいという欲求が芽生えた。

職場の飲み会が意外と早く終わり、21時頃、自宅の最寄り駅である梅ヶ丘駅を降りた。

僕は右腕につけた時計に目線を落とすと

(まだ間に合うな…)

そう心の中でつぶやき、久々に自宅のある南口では無く、北口へ出て、店へと歩き始めた。

表通りから、小さい小道へ入ったら見えてくる看板


「柳寿司」


ここが僕の行きつけの店だ。


1ヶ月ぶりに暖簾を潜る。


「いらっしゃいませ!あっ、タカシさんお久しぶりじゃない!」


僕の顔を見るなり笑顔で声を掛けてきたのはこの店の女将さんだ。

「タカシさん」というのは僕の事だ。僕のフルネームが「前田隆」であり、この店の常連さんで他にも前田さんがいらっしゃる事から、この店では女将さんも大将も、常連のお客さん連中も皆、僕の事を「タカシさん」と呼んでいる。


「タカシさん最近全然顔見せないから心配してたのよー。何処かで飲んできたの?疲れた顔してお仕事忙しいの?」


女将さんはカウンターの一席に僕を案内しながら話を掛けてくれる。そして僕の浮かない表情も察知したようだ。細かい所によく気付く、素敵な女将さんだ。

女性の年齢のそれに関してはよくわからないが恐らく50代前半だと思われる。愛想と人当たりが良く、とてもチャーミングで、無骨で無口な大将とうってかわり、常連のお客さんとよくコミュニケーションを取っている。そんな女将さんとの会話が楽しくてこの店に通う人も少なく無い。


「タカシさんとりあえずいつものでいいかしら?」


女将さんはそう言いながら、僕の目の前に瓶ビールの中瓶とビアタンを置いた。

僕のいつものと言えば、瓶ビールの中瓶と、つまみの刺し盛りである。

しかし、いつものでいいかしら?と聞いておきながら、既に瓶ビールを用意するあたり、女将さんの仕事の早さは感心してしまう。


「そうだなあ、今日は早速握って貰おうかな…」


僕はビアタンを傾け中瓶のビールをトクトクとグラスに注ぎながら握りを注文した。


「そうかい、中トロでもいくかい?」


大将が中トロを勧めてきた理由は、僕がいつも握りは中トロから頼んでいたからだ。

あれだけ寿司好きを公言しておきながら、通好みである光り物の酢締め等より、トロやウニ等の寿司ダネの花形を僕は好んでいた。


「うーん、そうだなあ…コハダから握って貰おうかな…」


自分でも驚いた。1ヶ月ぶりの寿司、大好物の中トロでは無く、コハダを注文していた。しかし今日の僕はコハダから食べると決めていた。


「タカシさんがコハダなんて珍しいな!」


2つ隣のカウンター席に座る呉服屋の主人、若林さんが口を挟む。

若林さんは毎日この店に来て飲んでる常連さんだ。年の功は60代後半。酔うと誰かれ構わず絡み、説教癖を出す、そんな若林さんが僕はちょっと苦手だ。

僕は若林さんとなるべく会話をしないよう、無言で軽い笑

顔と「お久しぶりです」といった意味を込めて軽い会釈で対応した。


しかし、若林さんの言葉も当然なのだ。何故なら僕は3年間、この店に通って以来、コハダはおろか、酢締めの光り物を頼む事は殆ど無く、基本自分の好きなトロ、ウニ、イクラ、穴子、エビなどばかり食べていたからである。


あんなに粋な大人の寿司の楽しみ方に憧れ、寿司好きを公言しておきながら恥ずかしい限りではあるが、結局僕は「行きつけの寿司屋のカウンターで寿司を食う」という、格

好だけを真似ているだけで、本当に大人な寿司の嗜み方を知らないのだ。


何も決して偏食がいけないというわけでは無いが、寿司通を語るのであれば、やはり伝統的な江戸前のネタ、コハダを敬遠するのは恥かしいものだ。

しかし僕は今日、今まで敬遠してきたコハダを注文したのだ。


大将は僕がコハダを注文した事に少し驚いた表情を見せながらも


「あいよ。」


と、言いながら手際よくコハダを握り、僕の目の前に差し出した。


「やっぱ江戸前寿司食うならコハダは欠かせねえよ!そもそもコハダは出世魚でー、シンコ、コハダ、ナカズミ、コノシロ、と成長していくに連れ名前が変わっていくわけでー…」


若林さんが熱燗のおちょこを片手にウンチクを始めた。この妙に解説くさい所も、僕が若林さんを苦手な要因でもある。


若林さんのウンチクを横目に、僕は大将の握ったコハダを手で掴み、口に運んだ。寿司は握って出されたら時間を空けずにすぐに食べるのがマナーである。若林さんのウンチク等、聞いてる暇は無いのだ。


コハダを口に入れた瞬間、爽やかな酢の酸味を感じた後、追いかけるようにコハダの旨味が僕の口の中に広がる…。

美味い…そう思った刹那、頬が濡れる感触を感じた。


涙だった。


僕は泣いていた。


それは決して、山葵のせいでは無かった





「ちくしょー。全然釣れねーじゃんよー…。」


僕はその日、趣味である釣りをしに千葉県は船橋の海まで1人で来ていた。


前日に大雨が降り、水も濁っている為シーバス、つまりスズキを狙いに来たのだ。


前日の雨とうってかわり、本日は快晴だ。春先という季節も手伝い、気温はほのかに肌寒い程度、釣り日和である。


にも関わらず、今日は朝から坊主だ。全く釣れない事に苛立ちを覚えていた。

あまりにも釣れない為、昼過ぎに納竿し、車へ戻ろうと駐車場に向かって歩いている時だった。


堤防に女性が1人倒れていた。


周囲に人もいない状況で人が倒れている…、人命の危機を感じ、倒れている女性の元へと駆け寄った。


「ちょっと!大丈夫ですか!?大丈夫ですか!?」


大声で声を掛けながら僕は倒れている女性の肩を3、4回叩いた。

幸いにも女性は直ぐに気付いてくれた。どうやら意識はあるようだ。ゆっくりと目を開けて、僕に顔を向けた。その刹那


衝撃が走った。


女性の顔を見るや、僕は釘付けになった。吸い込まれるような澄んだ瞳…小さく、それでいて妖艶な唇…。そんな事あるばすも無いのに、彼女自身がキラキラと水面が太陽に照らされて光るように、輝いているように見えた。


(う、美しい…。)


あまりの美しさに心を奪われてしまった。

小説や漫画など、フィクションの世界だけの物だと思っていた。それはまさしく一目惚れと呼ばれる物であり、まさか自分の身に降りかかるとは思って無かった。


僕は固まってた。時間にして数秒の事であろうが、その衝撃たるや、体感として数分にも感じられた。


「あの…」


小さくボソっと彼女は声を発した。僕は彼女の声で我に返った。今は彼女の安否を確認する事が先決だ。


「あっ…あっ、あの…大丈夫ですか…?」


「はい…。大丈夫です…。ご迷惑をお掛けしてすいません…。」


小さく、か細い声だが、彼女はハッキリとした意識を持って答えてくれた。


「あの…もしあれでしたら救急車とか呼びましょうか…?」


「いえ…ただの貧血で倒れただけですので、本当に大丈夫です…。」


「そうですか…、一先ずここでは休めませんから、そこにベンチがありますし、移動しましょう。」


僕はすぐ背後の遊歩道にある小さなベンチを指差した。

彼女は小さく頷いた後、体を起こそうとした。しかし、やはり力が入らないようで、僕は多少彼女に触れる事に戸惑いながら、彼女の背中に手を回し、体を起こすのを手伝っ

た。

ベンチまでは数十歩程の距離だが、彼女は1人で歩くのが辛そうだったので、やはり彼女に触れる事に戸惑いつつも肩を貸し、ベンチまで彼女を誘導した。

彼女をベンチに腰を掛けさせた僕は、すぐ側の自販機に駆け寄り、水を一本購入して彼女に渡した。

彼女は


「ありがとうございます。」


と、言い水を口にした。

その横顔にまた見惚れてしまった。あまりの美しさに、ただただ傍観するしか無かった。


「あの…助けて頂いてありがとうございました…。」


「いえ、突然人が倒れていたんでビックリしましたよ…。でも本当に大丈夫ですか?もしよろしければ僕、車で来ているのでご自宅まで送りましょうか…?」


「…。」


変な間が空いた。僕は瞬間心の中で


(しまった…!)


そう思った。さすがにさっきまで倒れてたとはいえ、数分前に会ったばかりの女性を自宅に送っていくなんてデリカシーの無い男だと思われてしまったのだろうか…。


彼女は少し間が空いた後、水を一口飲み、下を向きながら答えた。


「お気遣いありがとうございます…。でも本当に貧血で倒れてしまっただけですし、自宅も歩いて帰れる距離ですから大丈夫です。ただ…」


彼女は視線を僕の顔に向けながら続けた。


「まだ少し歩くのが辛いので、落ち着くまでここで休んでいきたいんですが…一人だと心細いので、落ち着くまで一緒に居て頂けますか…?」


僕は少し驚いた。自分ではてっきりデリカシーの無い事を言ってしまって彼女に距離を置かれてしまったと思った矢先の言葉だ。驚きと同時に嬉しさが込み上げた。気になる女性に「そばに居てくれ」と言われて拒否する男など居るはずも無い。


「勿論です!!気の済むまでお付き合いしますよ!!」


少しテンションが上がってしまったのか、僕はトーンが上がりすぎて少し声が上ずってしまった。

彼女は少しキョトンとした表情をした後、恥かしそうな表情をしている僕を見て、クスっと笑った。その笑顔もまた可愛く、そして綺麗だった。


僕と彼女はそれから他愛も無い会話を続けた。

彼女の名前は「肌子」と言い、今日は天気がいいので自宅近くの港に散歩に出かけたのだが、最中に貧血の発作が出て倒れてしまい、そこに僕が通りかかったとの事だった。


肌子は会話をしてみると、意外にもフレンドリーで僕らの会話は弾んでいた。気がつけば、肌子の体調がとっくに回復していたが、時間を忘れて談笑していた。


僕らはとっても気が合った。この日から肌子と僕は急接近した。連絡を取り合い、会う時間を重ね、交際へと発展するまで一ヶ月は掛からなかった。


交際へと発展してからも僕らの仲は順調だった。ケンカをする事も無く、トラブルも無く、互いの休日の週末には必ずドライブや食事に出かけ、僕の自宅のアパートに肌子が泊まりに来て一緒に過ごす…そんな日々を続けていた。互いを本当に愛し合い、大切にしていた。


肌子は非常に出来た女性であった。僕よりも若いけど、凄くしっかりしていて、週末に僕の家に来た時には掃除、炊事、洗濯など家事の全てをやってくれた。


ずぼらな僕は自炊なんかも全く出来ないし、掃除も洗濯も苦手だ。洋服を脱ぎっぱなしにして床に散乱させる事もしょっちゅうだし、肌子が週末アパートに来るたびに


「もおー少しは掃除しなさいよぉ!」


と言いながらも、毎回部屋を片付けてくれた。

そんな家庭的な肌子と結婚を考える事になるのは当然の事かもしれない。

僕も30歳を過ぎている。肌子との交際も半年は経過していた。

僕は密かに彼女へのプロポーズを決意した。


しかし、順調そうに思える肌子との交際の中で、僕は一つだけ不安に思う所があった。

肌子と交際して半年余り、僕は彼女の家に行った事が無かった。

いや、それどころか彼女の自宅の場所すら知らなかった。

彼女とデートへ出かけた後、車で送り届ける際も、自宅では無く、自宅近くの、彼女と出会った港で彼女を降ろしていた。

勿論、僕は肌子を自宅まで送り届けたかった。だけど肌子は決まっていつも


「家が貧乏でボロボロだから恥ずかしいの…だからここで大丈夫。」


と言い、必ず港までしか送らせてくれなかった。

肌子は実家暮らしだった。いつも実家がボロボロで恥ずかしいと話していたが、僕は

(本当にそうなのだろうか…?)

という疑問を感じざるをえなかった。

本当は男でもいて一緒に住んでるんじゃないか…?

真剣に交際をしていると思っているのは僕だけじゃないんだろうか…?

考えれば考える程、不安や疑問は拭いきれなかった。

だけど、週末に彼女と一緒に過ごす時間は凄く幸せだし、彼女の僕への接し方は、自宅を教えてくれない事以外は、自惚れかもしれないけれど、本当に僕の事を愛してくれてると思えていた。


だから僕は常日頃から、肌子への疑念を、肌子を信用していない自分が悪いと言い聞かせ、押し殺していた。

しかし、結婚となれば彼女の両親にも挨拶をしなければいけない。その為には彼女の自宅まで行く必要があるのだ。

結婚を口に出せば、自宅を教えたがらない肌子はどういう反応をするのか…?結婚を考えれば考える程、肌子への疑念が渦巻いて、いてもたってもいられなかった。


肌子との結婚を考えるようになって何度目かの日曜日の夜、いつものように週末を僕のアパートで過ごし、彼女を自宅近くの港まで車で送り届けた。肌子はいつもの調子で笑顔で


「ありがとう!ここで大丈夫だから!またね!」


と車を降りようとした。その時


「ちょっと待ってくれないか」


僕は肌子を呼び止めた。今日こそ、彼女をしっかりと自宅まで送り届けて疑念を晴らしたい…その思いから彼女を呼び止めていた。


「俺達、もう付き合って半年以上になるよね?自宅がボロボロで恥ずかしいって気持ちもわかるけど…住んでる場所くらい教えてくれてもいいんじゃないかな…?」


「…。」


僕の問いかけに肌子は黙っていたが、僕は続けた。


「俺は肌子との事、ちゃんと真剣に考えてるし、将来的な事も考えたら、ちゃんとご両親にも挨拶しなければいけないしさ…。」


「…。」


肌子はバツの悪そうな顔をして下を向きながら、まだ黙っていた。

そんな肌子を見て、僕は段々と不安が込み上げてきた。


「なんで黙ってるんだよ…。そんなに俺には家を教えたくないの…?」


「…。」


相変わらず肌子は下を向いたまま黙っている。僕はその態度に怒りを露にし、声が大きくなった。


「本当に実家を見られるのが恥ずかしいのが理由かよ!本当は他に男でもいるんじゃないのか!?」


ついに本音が出てしまった。その刹那、肌子が瞬間的に反論した。


「違うわ!」


たった一言だが、力強く肌子が否定した。肌子の目には少し涙が浮かんでいた。


「じゃあ何故…何故家を教えてくれないんだよ!両親に会わせてくれないんだよ!俺の事好きじゃないんじゃないか!?」


「そうじゃない…タカシの事は愛してる…本当に…だけど、だけど…ごめんなさい…。」


「なんでだよ!!意味わかんねーよ!!」


僕はまくし立てるように叫んだ。

肌子はただ涙を流しながら


「ごめんなさい…。」


と何度も呟いた。僕は怒りをどこにぶつけたらいいかわからず、車のハンドルに顔を埋めながら


「なんでだよ!!なんでだよ!!」


と叫んだ。その刹那、肌子が


「本当にごめんなさい!!」


そう一言叫んで、助手席の扉を開け、外に出て走り出してしまった。


「肌子!?どこへ行くんだ!?」


とっさの肌子の行動に僕はびっくりして追いかけるのに一手遅れてしまった。慌てて運転席の扉を開け、肌子を全速力で追いかけた。

しかし、一手遅れてしまったせいで肌子に中々追いつけない。


「肌子!!待ってくれ!!」


僕の声も空しく、肌子はどんどん先を走っていく。道の先は港だった。


「肌子!!一体どうしたっていうんだ!!」


叫びながら肌子を追いかける。肌子は海の目の前まで来ていた。


「肌子!!」


僕の呼びかけに肌子は振り返った。その目には大粒の涙がこぼれていた。その刹那


ドボーーン!!


肌子は僕の目の前で真っ暗な夜の海へと身を投げてしまった。


「肌子!!肌子ぉぉぉ!!」


まさかの事態だった。肌子をこんなにも追いつめてしまったのか…、自責の念にかられながら、僕は全速力で海へと駆け寄り、肌子を救出すべく躊躇なく海へと飛び込んだ。


「肌子!!肌子!!」


真っ暗な夜の海中を必死に潜り、肌子を探した。


「肌子!!どこだよ!!肌子!!」


潜れど潜れど肌子は見つからない。視界の悪い暗い海中を必死に探すも、ついに肌子の姿は見当たらなかった。


「ちくしょー!!肌子ぉぉぉぉぉ!!!」

息が続かず、水面に顔を出した僕は思わず叫んだ。その刹那


「タカシ…。」


肌子の声だ。


「肌子!?どこだ!?肌子!!」


僕は必死に周りを見渡した。しかし、肌子の姿はどこにも無かった。


「タカシ…。」


また肌子の声がした。幻聴なのか…?いや、そんなはずは無い。しっかりと肌子の声が僕の耳には届いていた。


「肌子!?どこにいるんだ!!いるなら姿を見せてくれ!」


「ここよ…タカシ…。」


僕は冷静に肌子の声がする方向を見た。そこには誰もいなかった。いや、正確に言えばいた。しかし、目の前にあるその光景は受け入れがたいものだった。


「ここよ…タカシ…。」


肌子の声の主はそこに確かにいた。水面から顔をヒョッコリと出したコハダが。


「ごめんなさい、タカシ…。これが本当の私なの…。」


肌子の声で話すコハダ。僕は夢でも見ているのだろうか…?


「私…、コハダなの。」


理解が出来ない。目の前にいるコハダが、魚が、肌子の声で話している。終いには「私コハダ」ときた。


声にならなかった。鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしている僕に、肌子の声で話すコハダは続けた。


「両親に会いたがってたわね…紹介するわ。コノシロの父さん母さんと、妹のシンコよ。」


肌子の声をしたコハダの横から、ヒョッコリとコノシロ2匹と1匹のシンコ、計三匹の魚が水面から顔を出した。

僕の目の前には水面から顔を出す四匹の魚…。それは肌子と肌子の家族だと言うのだ。


「信じてって言う方が無理よね…。ごめんなさい…。私はコハダなの。人間じゃないの…。そして、この海が私の実家よ…。」


実家が海、コノシロの両親、肌子はコハダ…

事態が飲み込めなかった。


だけど現に今、目の前では確実に肌子の声をしたコハダが話している。そんなありえない状況に、狂いそうになりながらも、ゆっくりと目の前のコハダが肌子であるという事実を理解するしか無かった。


「そんな…そんな事って…嘘だと言ってくれよ…。」


僕は泣きそうになりながら、声にならない声を出した。


「本当よ…。私はコハダなの。だから…タカシとは結婚出来ない…。ごめんなさい。」


コハダは、いや、肌子ははっきりと結婚が出来ない意思を僕に告げた。

その刹那、僕の脳裏には肌子とのこれまでの思い出が走馬灯のように駆け巡る。僕は本当に肌子を愛していた。


「コハダでも…コハダでも…それでもいい!!肌子は僕にとって大切な人なんだ!!これからも一緒にいてくれよ!」


素直な気持ちから出た言葉だった。例え目の前にいるコハダが本当に肌子でも、肌子と過ごした月日は変わらない。

肌子とこれからも一緒にいたい、その思いだけは変わらないのだ。だけど


「人じゃないわ。魚よ。」


肌子は僕に痛烈な一言を告げた。そう、人では無い。コハダなのだ。魚なのだ。だから結婚は出来ない…当たり前の事だった。だけれど…


「そっ…そんな…魚だって、魚だって肌子は肌子だ!俺の愛した肌子だろ!だから…これからも…これからも…」


冷静に考えれば魚と一緒にいたいなんて正気の沙汰じゃあないかもしれない。だけど目の前にいる魚は、僕の愛した肌子なのだ。別れたくなかった。だけれど肌子は


「無理よ…。タカシは私を愛し続けるなんて絶対に無理よ…。」


僕にはコハダである肌子を愛し続ける事が無理だと言う。僕は納得が出来なかった。


「そんな事ない!!俺は肌子を愛し続けるよ!!」


肌子を思う気持ちは誰にも負けない。僕は力強く、自分の気持ちを伝えた。しかし


「絶対に無理よ!じゃあ聞くけど、タカシは寿司ネタでコハダが一番好きだと言えるの!?中トロやウニやイクラを差し置いて、コハダが一番好きだと言えるの!?」


「うっ…。」


ぐうの音も出なかった。確かに僕は寿司屋に行けば、コハダは敬遠していたし、一番好きなネタは中トロだった。


「だから無理なの…。私はコハダなの…。タカシにとって私は一番にはなれないの…。だから…。」


「肌子…。待ってくれ…。違うんだ…。」


「違わないわ…。タカシは中トロが好きなんだもの。自分に嘘はつかないで…。だけど、コハダもたまには食べてね…。」


「肌子…」


「今までありがとう…。さよなら…。」


「肌子!!肌子ぉぉぉぉぉぉぉ!!」


肌子は海の中へと消えていった。真っ暗な夜の海で、肌子の名を叫ぶ、僕の声だけが空しく響いていた…。







「ちょっと、タカシさん?タカシさん!?」


柳寿司の女将さんが僕の肩を叩いて心配そうに声を掛けた。


「タカシさんどうしたの?コハダ食べてから急に涙流して固まっちゃって!」


コハダを一貫、口にしてから僕は物思いにふけていた。たった数分の事ではあるが、完全に自分の世界に入り込み、涙を流す僕の姿は周りから見れば異常な光景だ。女将さん始め、大将も若林さんも、皆僕を不思議そうな顔で見ていた。


「いや、ちょっと色々思い出しちゃってね…。」


僕は涙を拭って、二貫目のコハダを口に放り込んだ。


「そう…なんか辛い事でもあったの?最近全然顔みせてくれないからなんかあったのかなあって心配してたのよ?」


女将さんは心配そうな口調で気に掛けてくれた。


「いや、辛い事っていうか全然来れなかったのは単純に仕事が忙しかっただけで、毎日クタクタだったんだよ。だけど、昨夜夢の中でコハダが出てきてさ、今日どうしてもコハダが食べたくなって寄ったんだ。」


僕はここ最近、職場の人間が一人辞めて、自分に降りかかる仕事の量が増えて多忙を極めていた事、そして昨日見た夢の中にコハダが出てきた事を皆に話した。


「へえ、夢の中にコハダがねえ。もしかしたらタカシさんがいつもコハダ敬遠してっから、食べてくれってコハダの化身が出たのかもしれねえなー。」


若林さんが冗談交じりに言う。それを聞いて大将も


「そうかもしんねーなー」


と、ケタケタ笑った。大将に釣られて、女将さんも若林さんも、僕も自然と笑みがこぼれた。


今日も柳寿司に笑顔は絶えない…。





fin


※この物語はフィクションです。



さて、長い枕になりました。ブログ本編です。

僕は年明けから何回か風邪をひいており、体調があまり芳しくありませんでした。

皆さんもお体にはくれぐれもお気をつけて下さい。

長文お付き合いありがとうございました。

蟲の息 -MUSHI NO IKI- Official Web Site

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